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イッタラ展に行ったら

イッタラ展

最近やたら更新頻度が高いのは有給取得で暇な日が多いのが理由です。全く使ってなくて短期間で消化しなくてはいけない羽目になってしまいました。同僚の皆さん御免なさい。それはともかく激務で疲労困憊なので癒されたく、フィンランドガラスの展示会「イッタラ展」に行ってきました。

日常カテゴリーは本来こういうゆるーい記事を書くために作ったんですが、生来の凝り性ゆえに結局は本格的な記事になってしまい...今回初めて本来の意図通りの記事が書けるかな?

 

イッタラ展

徒歩7分とか嘘付くな(怒)GPS効かなくてウロウロ、都会のビル群で遭難しかけました。これが渋谷樹海...!だからSIBUYAは嫌なんだよ。

20分以上彷徨ってようやく辿り着いたときに撮ったのが上の写真です。

 

イッタラ展

おぉ、ガラスをキノコに見立てて...!このセンスの良さは期待できるな。

でも入場料¥1700はちょっと高過ぎる。新宿とか上野では駄目だったのか?渋谷という土地のブランド料が多分に含まれている気がするのだが。

 

イッタラ展

今日の時計はボーイ。最近着けるのがツナ缶やチャレンジタイマーばかりで久しぶりの出番です。やっぱりクォーツは便利なんだよね、でもこの滑らかな運針もやはり良い。飽きないなぁ。

 

イッタラ展

写真いっぱい撮ろうと張り切ってましたが、最初と最後の展示しか撮影許可が降りないようです。がっかり...なら目に焼き付けよう。ここに飾られているのは「アアルトベース」というブランドの代表作です。美しい形ですね、花瓶かな。

先に総評を述べると色とりどりのカラーガラスや独特の造形のガラス作品の数々にとても目が癒されました。この展示会では作品の展示とともにこれまでのイッタラという会社とフィンランドガラスの歴史を学べるようになっていて①どうやってガラスが作られるのか、②どのようにガラス加工が進化してきたのか③どんなデザイナーがいたのか④現在どのような取り組みをしているのかなどが解説されています。

特に印象に残ったのが戦後多くのフィンランド国民が貧しい生活を送る中で集合住宅の狭いスペースでも快適に使用できるよう機能主義を重視するようになったということと、カイ・フランクという方の作品でした。狭い収納でも置けるよう作品群を全て重ねられるようにデザインしたり角を落として丸みのあるデザインを心がけたり。使い手のことを親身に考えたそのコンセプトに大変共感するところがあり、その在り方はミニマリズム思想そのものといえます。

カイ・フランクさんの作品はどれもその機能主義に特化したものであり、ごくシンプルなものばかりですがどの作品にも興味を惹かれる独特の味わいがあります。道具の持つ機能そのものを美しさとして際立たせることができる方なのでしょう。親日家らしく日本のわび・さび文化を大変気に入っていたそう。そのうち余裕ができたらこの方のデザインしたコップが一つ欲しいところです。

昔はガラス製造は一子相伝の技術であり、時代が進むにつれて産業として組織化されていったことも知れました。代々伝えてきた秘密の技術を時代の流れとはいえ広く公開することには職人さんにも葛藤があったでしょうし、ドラマもあったでしょう。でも昔の不純物が混じっているらしい色もすすけた透明度の低いガラスと現在の透明度の高い均等な色合いのガラスの展示を見比べると、そうした方々が伝えた技術はその甲斐あって進歩し続けているのが分かります。

 

イッタラ展

イッタラ展

1番奥の最後の展示がこの鳥細工でした。私は2枚目の写真のつがいがお気に入り。名前は忘れてしまいましたがこのガラスの鳥細工ばかり作っていらした方がいて、その方の作品はどれも可愛らしいものばかりで見ていてほっこりしました。

展示数の多さの割に思ったよりも早く見終わってしまったので、気に入った作品だけもう一度見てからお暇しました。この辺りには滅多に来ないので前から見たいのに縁がない場所があり、代々木公園へ向かいます。

 

徒歩30分ほど、代々木公園の端にひっそり佇む「日本航空発始の地」。ここは日本の航空史が始まった場所です。徳川好敏氏が日本人として初の航空機飛行を行いました。

 

日本航空史の始まりの2人である日野熊蔵氏と徳川好敏氏の銅像です。この2人は共に「日本の空を初めて飛んだ日本人」。実は日野氏は徳川氏の飛行の数日前、非公式に飛行を(シャレ?)成功させています。お偉方には黙殺されましたが当時日野氏は発明家として時の人であったらしく結果として上記のように認知された訳です。当然公式記録には徳川氏が初飛行ということになっています。

日野氏は拳銃の開発でも有名で多才な人物だったようですが、自分の才能に自信がありその言動が疎まれて苦労されたようです。起伏の激しい激動の人生を歩みますが終戦後の1946年、栄養失調でこの世を去ります。

当時はかなり仲が悪かったろう2人も今では並んで代々木公園に立っています。本人たちのいざこざなど周りの人間には素知らぬものか、それとも時の流れの前には人間の感情の機微など些事なのか。色々なものを考えさせられます。

 

という訳で結局かなり長文の記事になってしまいました。まあいつもよりゆったり書けたので良しとしよう。筆まめ。ご覧いただきありがとうございました。